すべてが終わった
2022.04.10
◎ヨハネの福音書19:23~30
ついに、イエスが言われていた“わたしの時”(ヨハネ2:4)が来ました。なんと、救い主 をずっと待ち望んでいたユダヤ人たちは、イエスが父なる神の栄光を現したことに激しく嫉妬し、どんな汚い方法でも死刑にしたくて仕方がないと言わんばかりです。(ヨハネ18:31、19:7)イエスのうちに、誰もが何一つ罪を認められなくても、イエスを神の御子、救い主と認めない。これこそ、人間の心にある罪の本性です。その姿こそ、目の前の真理~あなたを創られ生かす神~を無視し、我が道を行く、私たち人間の罪の姿なのです。(ヨハネの3:36)たとえ人を殺さなくても、「あんな人はいない方がいい」と思う心を、神は殺人と同じく重い罪とみなされます。だれもが神の前では罪ありとされ、だれもが神の御怒りを受けなければならないのです。それなのに、父なる神と一つであるお方が、ラザロを生き返らせたお方が、あえて十字架で死を選ばれたのは、あなたを救うためです。イエスは十字架の上で、『完了した』『すべてが終った(口語)』そう言われます。この言葉は絶望などでは決してありません。私たちがイエスと出会って、新しいいのちに生きるために言われた希望の宣言です。父なる神から託されたことを成し遂げ、世界の初めに預言された人間の救いがついに完成したのです。本当の意味で終わってしまうはずの“イエスなんて知らない”という虚しい人生、そのこと自体を終わらせるために、神の御怒りをすべて背負われ、イエスはあなたの身代わりに十字架で死なれ『完了した』のです。(イザヤ53:1~6)イエスの十字架の死と復活は、極悪人のバラバを、イエスをなぶり殺したユダヤ人たちを、イエスを裏切ったペテロや弟子たちを、人生終わったと彷徨う人々をも、救い生かします。ペテロ①3:18『正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。』イエスは私の罪ために、十字架で死んでくださったと信じるならば本当に幸いです。そのとき、私たちの心と人格の奥底にまでしみついた罪を、神は聖めてくださいます。イエスの生き 方を愛し、イエスがなされたことを意識して生き始める、新しいいのちが私たちの中で息づき始めます。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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