たとえ声にならなくても
2022.07.10
◎Ⅰサムエル1:1~10
いつからか、不妊(近年男性にも)は恥という、神さま以外の文化が入り込んでいました。神さまが人間にプレゼントされた結婚の奥義は、『男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』(創世記2:24)一人の夫と一人の妻が、心も身体も一体とされる聖なる祝福、最も親密な愛の関係、それが結婚の奥義です。ここには、子についての祝福は含まれず完結しています。なぜなら、命を生む奇跡は、神のなさる御業であり、夫婦の祝福に、追加された祝福だからです。しかし、“ふたりは一体”との間にもう一人妻がいる点で誠実な愛とは言えず、ハンナは夫エルカナから理解されず悲しみ、さらに、子が与えられているペニンナからは見下され深く傷つきます。そんなハンナを主なる神は見捨てませんでした。主は、“耳があっても聞こえず”の偶像ではありません。主は、天地を創られ、私たちに命を与え生かすお方、全知全能の神です。『ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。』…全部ばれている…いいえ、既に知ってくれているからこそ、神さまには隠す必要が全くないのです。ハンナは、憂鬱に沈む心、苛立つ心を隠さず主の前に注ぎ出し、泣きながら祈ります。心を絞りだすと、言葉が出なくなります。でも、それで十分なのです。『民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。』(詩篇62:8)。枯れ果てすがりつくその心ごとハンナを愛してくださる神が私たちの神です。酒に酔ったように誤解されるほどに、聖霊がとりなしてくださいます。祈りとは、まさに霊的な呼吸です。神さまとつながるための、大切な通信手段です。祈るとき、あなたを祝福したいと願われる神がおられることに気付かされます。さらに祈るうちに聖霊に満たされ、自分の願いを伝えつつも、ハンナはまだ問題が解決していないのにもかかわらず、神さまの栄光を求め始めるのです。『その顔は、もはや以前のようではなかった。』と平安に満たされ、なんと年が改まってから、命を授かるのです。私たちの心から絞り出される声にならない声を、決して無視しすることなく、疲れた魂を生き返らせる神さまは、祈りに応え、神ご自身の栄光のために、力あるみわざを行ってくださいます。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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