まことの神はただ一人
2024.09.22
「まことの神はただ一人」
◎出エ32:1-14
モーセが神との交わりにおいて御声を聴くために山に登っていました。そうして幾日も過ぎたときに民は不安になりました。モーセは死んだのではないかと。モーセを先頭に荒野を導かれてきた民は、新たな先導者を求めますが、それを目に見える神という形で求めました。エジプトほか、この時代には多くの神々の像があり、信仰されていましたから、イスラエルも目に見えて分かりやすい偶像の神々を求め、まことの神を自分たちの理想のなかに押し込めようとしたのです。民はアロンに申し入れ、アロンはそれに応じてしまいます。民衆の暴動を恐れたのでしょう。それで人々の金の耳飾りなどを集めて、それを溶かしてアロンが作った鋳型にはめ、金の子牛の像を作ったのです。民はそれで大喜びし、座っては食べ、立っては踊り、異教の民が行うようなふしだらな礼拝をして金の子牛を拝みました。そこへモーセが帰ってきました。目に見えないまことの神の直接の御声により、山を降りるように命じられたのです。偶像の神々は目はついていても見えません。口はあっても語れません。しかし、目に見えないまことの神は、すべてを見ておられ、みことばを通して語ってくださるのです。主の怒りは彼らに燃え上がり、民を滅ぼして、モーセを新しいアブラハムとして「大いなる国民」とすると言われましたが、モーセは嘆願しました。主は耳があっても聴こえない偶像ではありません。モーセの嘆願を聴いてくださり、わざわいを思い直されました。十戒を聴いたばかりの民が、ほんの少しのモーセの不在により、偶像崇拝に堕ちてしまったのです。モーセは心の憤りを抑えることができず、みことばを彫り刻んだ石板を叩き割ってしまいました。信頼していたアロンも火に金を入れたら勝手に子牛が出てきたと嘘をつく始末。モーセは自分に従うレビ族に命じて処罰を行いました。それで三千人が死にました。大きな代償でしたが、モーセ自身はそれ以上に大きな代償を支払う覚悟でした。自分の名前をいのちの書から消し去ってでも、民の罪をお赦しくださいと祈ったのです。命を投げ捨ててでも私を救ってくださった唯一の方、キリストの愛の予表を見ます。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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