イエスさまのようになる
2021.05.30
◎ルカ6:37~42(清和キリスト教会オンライン礼拝・小林泰輔牧師)
「さばくな」という教えもまた、キリスト教の教えとして有名でしょう。人をさばくそのさばきで自分自身がさばかれることになるからです。しかし、それは「お互い様だから言いっこなし」という意味ではありません。人をさばくな、そうすれば神もあなたをさばかないという意味です。人をさばく心は人間関係を破壊します。人の行為や主張が正しいかを判定する「裁き」から始まり、やがてその人を不義に定めて下に見るようなさばきに発展していきます。裁判には勝敗があるように、さばく心は人間関係に競争を持ち込みます。勝負の相手は「敵」と呼ばれます。汝の敵を愛せよと語られましたが、そもそもその敵を作り出していたのは私たちのさばく心が原因だったのです。私たちはみな対等です。自分をさばき主の座に就かせるべきではありません。隣人も兄弟姉妹もみな仲間です。私たちがなすべきはさばき合うことではなく、与え合うことです。それが神の国の在り方です。さばき合うことをやめれば世界を変えることができます。そしてそれは私から始めることができるのです。兄弟姉妹の誤りを指摘してはいけないのか。そうではありません。目のちりを取らせてくださいというユーモラスなたとえの結論は、「ちりを取り除くことができる」です。自分自身の目には丸太が入っているのだから偉そうにするなとか、お互いの間違いは見なかったことにしようというのではないのです。そのためにはもちろん自分の目から丸太のようなごっつい罪を取り除いてもらう必要があります。これも私から始められることです。罪の本質は「自分中心」ですが、悔い改めも兄弟を赦すことも「自分次第」で私から始められます。それには「十分な訓練」が必要ですが(40)、主イエスにすべての権利を明け渡す訓練を受けるなら、イエスさまのように愛をもってちりを取り除くことができるようになります。
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