イエスはキリスト
2021.09.19
◎ルカの福音書9:18~27
「イエス=キリスト」という表記を見かけることがあります。イエスは(イコール)キリストとも読めますから、それ自体が信仰告白のような気がします。イエス・キリストと呼ぶとき、私たちは最も短い信仰告白をしているとも言えるでしょう。ペテロはイエスさまに向かって「神のキリストです」と告白しました。人々がイエスのことを預言者のよみがえりだと噂していた時に、「(それはさておきほかでもない)あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」との問いに答えたものでした。この世の人々も、神や、救いや、救い主についてさまざまな見解を持っていますが、私たちは「イエスはキリスト、よみがえられた救い主」と毎主日、毎日、毎時、名を読んで信仰を告白するものです。救い主はだれかという真理が明かされた、その告白をイエスさまは、この時点では広めることのないようにと指示されます。ペテロや弟子たちの告白には、この世の王としてのメシア期待が含まれていたからでした。そして、神の救いの御計画は明らかにされます。救い主イエスは苦しめられ、長老たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならないと。この世の王としての快進撃とは程遠いものでした。その上で、地上の王にではなく、天の御国の王、永遠の救い主についてくるなら、神の国の生き方に従いなさいと命令されます。それは、自分を捨てること、十字架を負って自分に死ぬことを意味していました。それこそが、私たちがいのちを得る道だったのです。神さまは私たちにいのちを得させたいと願っております。一人として滅びることを望んでおられません。ですが、弱い羊である私たちは、辛さや苦しさの中でもがいて、自分で自分を救おうと躍起になり、空しい努力に明け暮れてしまうのです。しかし、やればやるほど沼に嵌っていくようなものです。自分のいのちを救おうとすることでかえっていのちを失ってしまうのです。しかし、自分を捨て、他者のために生きるときに私たちのいのちは神の栄光で輝きはじめ、イエスの御姿に似ていくのです。実に、受けるよりも与えるほうが幸いなのです。たとえ世的な成功者にはなれなくても、全世界の宝にまさる永遠のいのちが与えられます。主の目に恥じられることのない生き方を、十字架を担いつつ主イエスとともに歩んで参りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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