キリストにより頼む
2022.10.16
◎Ⅰサムエル4:1~11
神が選ばれたイスラエルの民は、神に無関心で自分勝手な道を歩みます。彼らが頼りにするのは、自分の欲と目に見えるモノです。契約の箱は、神の臨在と愛を思い起こさせるものです。それなのに、彼らは与えられた目的を忘れ、与えてくださった神の栄光までも忘れ、契約の箱をご利益なモノとして扱います。神から与えられた恵みに感謝し、神の愛を喜んでいたのに、次第に感謝を忘れる。契約の箱さえあれば、与えてくれた神は必要ないと、目に見えない神に対して薄情になり、そのうち契約の箱の意味すら考えることもやめ、自分の考えを頼りに進む。私たちはなんと神に対して薄情なのでしょうか。我が道を突き進んでいったエリの二人の息子は、預言の通りに戦死し(同2:25)、その衝撃で父エリまでも死んでしまいます。神への無関心の隙を悪魔につかれ、まことの神以外のすべてを頼みとするところでは、平安はなく、混乱と恐れで満たされていきます。さらに神は、偶像ダゴンとそれに頼る者もろとも打倒されます。(5章)なんと敵であるペリシテが真剣に神に向き合った時、神を無視するイスラエルと、神に敵対するペリシテの中で、たらい回しにされた神の箱(神の臨在の象徴)は、奇跡的な神の働きによって、元の場所へと戻ってきます。(6章)まさに、救いは一切人の手によらず、神のものです。教会の語る福音とは、たらい回しにされたイエスさまが、たらい回しにする人々をも救うために十字架でその罪を背負い死なれた恵みです。私たちもイスラエルのように神を無視し、ペリシテ人のように神に敵対していたのに、神の方から、私たちに神との和解と平和を与えてくださいました。この救い主にイエス・キリストにより頼むなら、これから先は、このお方が私たちの責任を負われ、その先の歩みをも保証してくださいます。この方以外を頼みにするなら、その責任は誰が負ってくれるのでしょうか。平安はありません。コロサイ3章13節『互いに忍耐し合い、人に責めるべきことがあったとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』私たちは自分自身や偶像にではなく、キリストにより頼み、互いに忍耐し合い、赦し合うことをさせていただきましょう。真の平和とは、キリストの身体である私たちを通して生まれさせてくださるのです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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