主はまことのぶどうの木
2023.03.26
◎ヨハネ15:1~17
聖書のなかでは「成長」がよく語られます。(教会学校の教案誌も『成長』ですね。)遊牧民族であったイスラエルがカナンの地に定住するようになり、農耕民族になりました。牧羊に関するたとえとともに農耕に関するたとえがよく用いられます。旧約聖書ではイスラエルの民は「ぶどう」や「いちじく」たとえられることがあります。その文脈においては、期待された実が実らないという比喩の用いられ方が多いように思います。そこで、イエスさまが言われた「わたしはまことのぶどうの木」とは、イエスさま(と、イエスさまに連なる民)こそが、まことのイスラエルであるという意味です。神の民、神のしもべであるべきイスラエルの使命とは、神の栄光を表すことです。神を愛し、神に従い通すことで、諸国民へ神の栄光を表すこと、そうして人類の模範となることでした。ぶどう園のたとえの中で、父なる神は、実を結ばない「もの」を取り除くと言われました。ここでは、もっと実を結ぶために邪魔なものを取り除く(あるいは枝を持ち上げる)という意味です。成績の上がらない「者」を刈り取って捨てるという意味ではありません。もっと成長できるように私たちのうちにある成長を邪魔する罪を取り除いてくださり、刈り込みをしてくださるのです。ただし、最後の審判の時になってもイエスさまから離れたままで実を結ばない「人」は投げ捨てられ、燃やされてしまうともあります(6節)イエスさまにとどまり続けましょう。また、「実を結ぶ」とは何を意味するのでしょうか。事業の成功でしょうか、道徳的善人になることでしょうか。それらはイエスさまなしにもある程度まではできます。あるいは伝道の成功でしょうか。受洗者の人数でしょうか。教会の建物を大きくすることでしょうか。それらは確かに神のみわざによることですが、私たちの思い通りにできることではありません。実を結ぶとは、イエスさまにとどまるときに、父と御子が愛し合うような愛が私たちの間に芽生えることです。そして私たちの互いの間に喜びが満ちることです。そのような教会の姿を通してまことの神のしもべ、神の教会は父の栄光をこの世に証しするのです。それこそがまことの霊的な実です。イエスさまにとどまり続け、愛、喜び、平安、いのちの御霊の注ぎを受けて、成長させていただきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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