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執筆者の写真みたまキリスト教会

人の罪とキリストの十字架

2023.10.08



◎ ローマ1:16~2:5

一般に「罪」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。真っ先に思い浮かぶのは「犯罪」でしょう。それから法的には罪ではなくても道義的に罪と呼べるような「道徳」。世間一般の認識はそんなところでしょう。しかし、聖書がいう罪とは「神に対する不従順」のことです。そこには道徳も犯罪も含まれます。世間一般の道徳の中でも世間体のようなものは神への不従順には含まれず、却って世間体を気にして神に背くことさえあるかもしれません。一番の罪、根っこの部分は「まことの神さまを礼拝しないこと」です。天と地を造られ、私たちをも造られ、被造物を愛のうちに保ってくださっている造り主なる神を無視することは、とても大きな罪と言えます。二番目の罪は「偶像崇拝」です。神でないものを神として拝むことです。偶像には動物の形をしたものや人間の像などがありますが、それだけではなく、神さま以上に大事なものがあったらそれも偶像(英語で「アイドル」)になります。拝金主義のことを「マンモニズム」と言いますが、「マンモン」という神として拝まれていた時代もあったほどです。現代の日本人の神は「世間様」かもしれません。 三番目は「諸々の罪」のことです。ここで犯罪や道徳的悪のことが出てきます。それらは元はと言えば、神さまを恐れず、神さまとの約束を無視する心から来るものです。罪を犯して「罪人(つみびと)」となるのではなく、元々神を無視しようとする罪の性質を持っているから諸々の罪を犯すのです。代表的なものに性的倒錯の罪(26-27節)や日常生活における罪(29-31節)が挙げられています四番目は「偽善」という罪です。人の罪をあげつらうことをしながら、自分の罪には鈍感であることです。前項の諸々の罪の一つを犯している者を責めるけれども、自分も別の罪を犯しているので、それは他人を裁きながら自分にも裁きを下していることなのです(2:1)。これらの罪がありながら神のみもとへ行くことはできません。そのためにイエス・キリストは道となってくださいました(ヨハ14:6)。すなわち、十字架で私たちの罪の刑罰を代わりに負ってくださり、私たちの罪咎を消し去ってくださったのです。罪の記憶からも解放してくださいました。キリストの打ち傷によって癒されるのです(Ⅰペテ 2:24)。罪を認めて悔い改め、イエスさまの十字架の愛を受け取りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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