堕落~魂の病巣
更新日:10月24日
2024.07.07
◎ローマ3:9-18
今日も「霊的に健康な教会」を目指して、健康について学びます。私たちのうちにある罪を犯さずにいられない性質(それはアダムの堕落以来始まった)は魂の病巣であると言えます。人は生まれつきみな等しく堕落しています。堕落の本質は「神に対する恐れがない」(18節)にあります。神を恐れるとは、“悪いことが起きると予感すること”です(ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』より)。神を恐れることがないと、何でもありになり、結果、自分が神になります。しかしそれは妄想であって事実私は神ではありません。自尊心は大切なことですが、神なき自尊心は堕落の隠れ蓑にしかなりません。どうしようもなく罪にまみれた私を、それでも神は愛してくださった、だから私は尊いのであり、神に向き直ることで人としての尊厳を回復することができる、これが本当の自尊心です。主を恐れるということが、魂の癒しにつながるのです。しかし罪に堕落した人間は、卓越した現実否認力を身につけてきました。神が存在することも、私たちが生まれながらの罪人であることも決して認めない、見つめようともしないのです。何かの悪い事件が起きても、浅い原因を探ることはしても深いところまでは考えません。犯人がどうしてそのような犯行に至ったかは考察しますが、人の心の中にある共通した欲望や罪の性質について、つまり自分も同じ犯罪者になる可能性については考えません。人は進化、進歩して、社会も倫理的に良くなっていくと考えます。ですから人間の堕落などないし、生まれながらの罪人などいないし、ゆえに神の救いなどというものも必要としないと、人類は現実否認の努力をもって神の存在を無視し、自分の罪に目を瞑ってきたのです。神から離れて生きることによって「誰もかれもが無用な者となった」元々は神の似姿に造られた者としての、互いに愛し合い、神を礼拝して喜んで生きるという、その力が発揮できなくなりました。「罪の中においては、ただ要求するばかりになっている。皆で同じ神のいのちを生きる代わりに、自分だけの人生を生きている」(ボンヘッファー)。その結果は地獄です。神のおられない世界のことです。地獄はうっかり落ちる場所ではなく、努力して行く所です。罪の報酬(努力の対価)は死だからです。しかし神のくださる賜物(ギフト)は永遠の命です。これぞ福音です(ロマ6:23)。神を求めて生きましょう。私の困りごとにちょこっと助けてもらうという求め方ではありません。神が神であられるように求めましょう。そして私は神なしには生きて行けないことを認めて、神の臨在を求めましょう。それが永遠の命を生きるということです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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