希望の歩み
2024.02.18
◎ピリピ3:12~21
★復活の希望は、信仰と愛によって★ パウロは今牢獄の中で、死刑を予期しています。それにもかかわらず、パウロには、決して消えることのない、一つの希望がふつふつと湧いてくるのです。それは、やがての時、栄光のからだに変えられ(栄化)、イエスの復活と同じように、復活するという希望です。このすばらしい復活を確信させるのは、私たちの信仰の強さではありません。私たちが信頼を置いているお方が真実であり、確かな約束をもって私たちを救いに召してくださる神ご自身の力によるのです。イエスの尊い愛、十字架の贖いによって、私たちは救われ、罪赦され、永遠のいのちに生きる復活の希望を与えられています。そうです、“私たちは既にイエスに捕らえられている”ことを感謝します。(ピリピ3:12) ★到達したところ★ 依然、弱く迷いやすい私たちに、主は語られます。16節『到達したところを基準にして進むべきです。』私たちは、ともすると自分の基準を低く考えてしまうのではないでしょうか。しかし確かに、私たちは救われており、イエスにがっしりと捕らえられている“到達したところ”にいます。これを私たちの歩みのベースラインとさせていただきましょう。パウロはどんなに挫折を味わっても、希望が失われそうになっても、それでも13節『ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし』ます。どんな状況でも、救われた者を見捨てないイエスと、神の約束される復活の希望から、パウロは目を背けることをしませんでした。 ★希望の歩み★ 復活の希望を持って歩む地上の歩みには、試練・困難があります。弱さを覚える時こそ、神により頼むのです。弱い私たちに、力強く働く神ご自身が、栄光をあらわしてくださいます。神がどれほど私たちを愛し慕っているのかが目に見えて明らかになるからです。そうして私たちだけではなく、私たちを見る人々が、この神こそが真の救い主だ、真実の愛のお方だと、味わい知ってゆくのです。神の愛の関係の中で、試練は、同じように悩み苦しむ兄弟姉妹に寄り添える心を、私たちの中で育んでくださいます。特別に何かをすることではなく、みことばの通り、すでに到達したところ、特別に愛されている神の子どもとしての身分を、私たちが感謝して受け取るとき、私たちにも今遣わされているところで、希望をもって歩み、主にある喜びが溢れてくるのです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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