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執筆者の写真みたまキリスト教会

平安があるように

2022.05.08



◎ヨハネの福音書20:19~31

復活のイエスを仲間と一緒に見られなかった、納得いかない。トマスには他の弟子たちとは違う理由で平安がありません。自分の思い通りにならないと、思いやりをはねのけ、焦りや疑いに心が囚われてしまいます。人は自分のこだわりを持っていると、焦点が神から外れ、真実が目の前にあっても、見えなく なってしまうのです。イエスがどれほど忍耐され十字架で死なれたのか、また復活という輝かしい栄光を現わされたのか、まるで他人事。そんな自分本位の道を選ぶ弱さが私たちにはあります。そんなトマスに、イエスは『「平安があなたがたにあるように」』(26節)と声をかけます。すねて疑い焦りイライラを隠せないトマスを、いつまでもほおってはおかれず、あわれみと愛で包んでくださいます。『「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』今思っていることを正直に言ってごらん。神はいつも私たちと生きた交わりを持ちたいと迫ります。その時、トマスは神を知るのです。イエスの復活を信じるもんか、とすねて豪語しイライラのときでさえ、ずっとイエスはそばにいて私のことを心に留めておられたのだと。『神よ …私を調べ私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。』(詩篇139:23,24)イエスの与える平安は、自分本位なこだわりなどどうでもよくなり、あんなに触りたがっていたトマスは、触れることなく、ただ見て信じるのです。神からの“平安があるように(=シャローム)”とは、お決まりの挨拶などではなく、真の神を信じられない心を安らかに変え、自己中心に生きてきた何の保証もない不安定な人生を、神中心という平安の人生に変える、あわれみと愛に満ちた恵みのことばです。イエスが私の主、私の人生の主人であることを忘れているとき、私たちの心は神からの平安を失います。私たちの心の王座に、イエスが座られ、このイエスのいのちの中で私たちが生きる、まことの平安を感謝して受け取りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>

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