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執筆者の写真みたまキリスト教会

律法に表されたキリストの愛

2024.06.09



◎ マタイ5:17-20

私たちクリスチャンの歩みとは、律法を守り行う、正しい生活をする歩みです。しかし、正しい生活と聞くと、そこには恵みではなく厳しさがあるように思えます。その理由は、私たちの律法の理解が間違っているからです。イエス様は今日の箇所でその間違いを指摘され、私たちに十字架の恵みを伝えています。律法とは、神様の心です。それは、「ここまで守れば大丈夫」や「これは守らなくても良い」というようなルールではありません。神様の心そのものなのです。私たちはこの点で勘違いをしています。マタイの福音書22 章には、「戒めの中でどれが一番大切か」と勘違いをしている律法学者への答弁があります。そこでイエス様は、「神様と人とを愛すること」と答えられます。律法を前にして、私たち必要なものは、神様への愛です。しかし、私たちには神様への愛がありません。律法を読むとき、私たちの心で起こるのは、律法に対する拒絶反応です。そのような私たちの現実がある中で、19節からイエス様は、神様への愛をもって律法を受け取らなければ、神様に受け入れられないと言います。ここで、イエス様は、私たちの間違った律法理解を指摘すると共に、私たちには神様への愛がなく、自分の力で神様に受け入れられることは不可能であることを教えています。しかし、ここで終わりではありません。私たちには不可能であるから、イエス様がこの地上に来られ、十字架にかかってくださったのです。十字架とは、神様に見捨てられた人を象徴する処刑方法でした。つまり、本来そこに掛けられるべきは私たちです。しかし、イエス様がそこに掛けられました。それは、イエス様の義が私たちの義となるためです。このイエス様の十字架を自分のこととして受け入れた私たちは、神様に完全に受け入れられているのです。その証拠に与えられたのが聖霊です。さらに、聖霊によって私たちは、神様を愛する心が与えられます。その聖霊から与えられた愛をもって、私たちは初めて神様の心である律法を喜んで受け入れることができるのです。この良い知らせを受け取って歩んでいきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・ 山口翔KGK主事>

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