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執筆者の写真みたまキリスト教会

必要なことは一つ

2021.11.21



◎ルカの福音書10:38~42

ある村でのことです。イエスさまとその一行はマルタとマリア(そして弟ラザロ)の家に迎え入れられました。マリアはイエスさまの足元に座り、「主のことばに聞き入って」いました。そのように女性が学ぶということが珍しい時代でしたが、マリアはただただイエスさまの語る御国の福音に夢中だったのでしょう。姉のマルタはイエスさまと弟子たちをもてな すために一生懸命働いていました。マリアもそのうち手伝ってくれるだろうと期待していたでしょうか。でも一向に手伝う気配がありません。あれもしなきゃ、これもしなきゃと、マルタは「いろいろなもてなしのために心が落ち着」きませんでした。マルタだって、イエスさまのことを慕い敬っていたのです。“よきサマリア人のたとえ”で言うなら、今はイエスさまこそが傷ついた旅人です。疲れて弱っているイエスさまの必要を満たしてさしあげたい、よきサマリア人のようにマルタは手当てをしてあげたかったのです。まさに「あわれみ深い行い」をしようとしたのです。思いやりから始まったことでしたが、しかし、いつしかそれが、思い煩いになってしまいました。イエスさまのためにと思って始めたことで、イエスさまを責めるという本末転倒に陥ってしまったのです。イエスさまは、愛情深く二度、マルタの名を呼んでくださいました。いろいろなことに気を遣って、そして思い煩って、心を乱してしまっていますね。でも、必要なことは一つだけです。そう言われました。必要なのはマルタのようにせっせと働くことではない、というのでしょうか。マリアのようにイエスさまのそばでみことばに聞き入ることだけが正解なのでしょうか。いいえ。あれか、これか、なのではなく、イエスさまとともにするか、イエスさまなしにするか、なのです。マリアはその良い方を選びました。主は世の終わりまで私たちとともにいてくださいます。主の臨在と守りと導きが私たちから取り上げられることはありません。私たちも“イエスさまのために”と言いなが ら、“イエスさまのためにやっている自分”に思いが行ってしまうことがあります。主が求めておられるのは、“イエスさまのために”では なく、“イエスさまとともに”生きることなのです。いつも心の中心にイエスさまをお迎えし、どんなときも主とともに歩んで参りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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