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執筆者の写真みたまキリスト教会

曲がった時代から救われよ

2021.10.03



◎ルカの福音書9:37~45

「曲がった時代」とは、いつの時代もそうであるように思えます。真っ直ぐな時代などなかったのではないでしょうか。それは私たち人間の心がねじ曲がっているからです。曲がった時代は、曲がった心が作るのです。今朝の箇所は、悪霊に憑かれたように引き付けを起こす少年と、その父親の話です。癒しと悪霊追い出しを願ってイエスさまのところにやってきました。それ以前に弟子たちのところにも来たのですが、弟子たちには悪霊を追い出せなかったのです。癒しを求めてイエスさまの御前に出た父親に言われたのは「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」というものでした。うんざり辟易としているようなお言葉です。優しいイエスさまがどうしたというのでしょう。「曲がった時代」という言葉は旧約聖書にいくつか出てきます。申命記 32:5 では、モーセを通して不信仰なイスラエルの民について語られています。あのモーセの時代から変わらない不信仰な態度を、モーセを再現する形で預言者的振る舞いとして指摘したのでしょう。イエスさまは息子を連れて来なさいと言われました。マルコの福音書 9:20〜27 にはもう少しくわしいやりとりが描かれています。父親はイエスさまに「おできになるなら…お助けください」と言いました。イエスさまは「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と諭されました。すると父親は叫んで「信じます。不信仰な私をお助けください」と言いました。写本によっては泣いて言ったとあるそうです。私たちも自分の信仰のなさに情けなくなり、泣きたくなるときがあります。それでもイエスさまにしがみついて、こんな不信仰な私でも助けてくださいと祈るなら、神さまは喜んで助けてくださいます。祈ることをためらったり、もうダメだと自分で結論を出してしまったりする私たちを見て、「頼れ、頼れ」と待っていてくださるのです。「不信仰な私を助けてください」という叫びであるのに、それこそが信仰だと認めてくださるのです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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