来たれ、既に備われたり
2022.04.24
◎ルカの福音書14:15~24
今日も復活節をお祝いしましょう。本日の聖書箇所は宴会の譬え話です。イエスさまの譬えには宴会の話がよく出てきます。クリスチャンをクリスチャンたらしめているものの一つに「喜び」があると思います。「いつも喜んでいなさい」というみことばもありますが、その命令に従っているからというよりは、喜びが溢れ出てしまう、そんな人たちなのです。ですから毎週の礼拝は祝祭として、喜びの宴として、ともに神さまとの交わりを喜んでいるのです。さて、今日の譬え話では、宴会の主人があらかじめ招待しておいた人たちに「来れ、既に備わりたり」(文語訳)と改めて招待のお声がけをするところです。ここに神の喜びがあることを見ます。私たちもホームパーティーを開くことがあるでしょう。準備万端、ゲストがお越しになるのを待つ時というのは、楽しみと喜びに満ちた時間ではないでしょうか。神は、私たち一人一人の名前を呼び、招いてくださる方です。そこには、招きに応答することへの期待があり、神の喜びがあるのです。イスラエルの民を招く神の喜びといえば、創世記のアダムとエバの堕落後に救いのご計画を始められ、綿密な準備を行なって、ついに時が満ちて神の国が来た、御子イエスがこの地に来られたという、万感の思 いでのお招きでした。ところが、招かれていたゲストたちは、ことごとく断りの返事をします。その用事というのも今日でなくてもよいものばかりです。何かと理由をつけては神の招きを拒んでいるのです。ここにイスラエルの頑なさ、「うなじのこわい民」である私たちの頑なさがあります。喜びにあふれる神の招きに対する、冷たく不誠実な応 答の落差たるや、神の落胆がいかほどかおしはかることができないほどのことです。怒った主人は、障がい者や貧しい方などを呼び、食卓の席を埋めるようしもべに命じました。しかしまだ空席があるので、さらに街の隅に追いやられている人たち(異邦人)を招いて食卓の席を埋めるよう命じました。まさにこの日、主が招かれたパリサイ人の食卓にはいない人たちのことです。神の喜びの招きには分け隔てなどありません。教会のクリスチャンたちが隅に追いやってきたのは LGBTQ の方々でしょうか。あらゆる差別を取り除き、乗り越え、神の喜びの宴にたくさんの方々をお招きしましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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