火は投げ込まれた
2022.02.27
◎ルカの福音書12:49~59
主イエスは「地上に火を投げ込むために来ました」と言われました。これは裁きの火のことか、聖霊の火、燃えるような信仰のことか、どのように受け止めたらよいのかと思いますが、どちらかひとつというより、その両方であると思います。火の性質は、光を照らす、温める、燃やすというものです。主イエスは私たちの心の闇を照らし、冷えた心を温め、罪を燃やし尽くすために来てくださったのです。今回は特に「焼き尽くす火」について見ていきたいと思います。黙示録20:12-15に裁きの後の状態が書かれています。「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」とあります。そこは悪魔も獣も偽預言者も(20:10)、そして死とよみ(同13)も投げ込まれるところで、「彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける」と書いてある恐ろしいところです。人はみな一度死にますが、死後に裁きを受け、主イエスを信じなかった者は第二の死として、この火の池に入れられるのです。裁きの結果の滅びとは、消滅するのではなく、永遠に苦しみ続けることです。私たちはイエス・キリストを私の神、主として信じるかどうか、態度をはっきりさせなければなりません。信じないという決断をするならば火の池に入れられる、そのような火がイエスの到来によってすでに地上に投げ込まれたからです。イエスを信じて、主とあがめ、主に従って歩むのかどうか、その信仰には反対する者も現れます。それがもし父や母や兄弟姉妹であったなら、そこには分裂もやむなしということになります。それほどの覚悟をもって神に対する態度を明らかにしなければならないのです。私たちは天候の変化から、出かけるべきか、洗濯ものを干すべきか、機会判断をします。神が忍耐して待っていてくださるこの機会を逃さず、神を信じる決断を今しなければなりません。私たちは裁きの時に向かって歩いています。その道中で訴える人と和解するならば、裁きを免れることができます。最後の審判で私たちを訴えるのも、罪に定めるのも、義なる神です。その方が、今、私たちとともに旅路を歩んでいてくださるのです。この機を逃さず、神と和解しましょう。有罪が確定したら1レプタさえ支払う能力もありません。代わりに払ってくださる主イエスの恵みを受け取りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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