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執筆者の写真みたまキリスト教会

神に対して富む者

2022.01.30



◎ルカの福音書12:13~21

事の始まりはある人の遺産相続の相談からでした。聖書の教師であるイエスさまに遺産相続の相談をすることは間違ったことではありませんでした。律法に遺産相続のことも書いてあるからです。しかし、遺産相続などは大した問題ではありません。本来、自分たちでさばくことのできる「ごく小さな事件」(Ⅰコリ6章参照)です。イエスさまはそれよりも大きな問題であり、誰にとっても問題である「貪欲」について話されたのです。財産に執着してはなりません。貪欲とはあり余るほど持っていても満ち足りないということです。「その人のいのちは財産にあるのではない」財産がその人の人生を生きているかのように歩むのは愚かなことです続いて話されたたとえは、教訓おとぎ話のような恐ろしさを感じるものでした。ある金持ちの畑が豊作であったのに、その人の第一声は「どうしよう」でした。喜びもなく感謝もなく、平安もないのです。たくさんの「私の作物」(17)、「私の倉、私の穀物、私の財産」(18)と語るこの人にとって、私=財産であるかのようです。この金持ちは財産を倉にしまい込んで、これから何年分も命の保証を得られたと言いますが、神はそんな彼に「愚か者」と言われます。この金持ちの命はその夜に取り去られるのです。そうしたら貯め込んだ物は誰のものになるのかと問うのです。その人自身はもうそれを使うことはできません。子どもに相続できればまだいいでしょうが、そもそもの相談は遺産相続がうまくいかないという話でしたから期待薄です。しかし、神に対して富む者はどうでしょう。どのような富で富んでいるのでしょうか。それは金銭ではなく、神さまの愛に満たされて富んでいるのです。神に対面して「私はあなたの愛で富んでいます」と言う人です。「わがたましいよ、これまで何年も神さまは私にとって良い方でいてくださり、これから先何年分もとこしえまでもいっぱい神の愛がためられた。さあ休め。主の御前で食べて、飲んで、楽しめ」と。このようにして満たされて溢れるほどの神の愛を貯め込んだなら、たましいが取り去られるとき、この愛はだれのものになるのでしょう。子どもたちに、信仰の友たちに、教会の仲間に受け継がれていくのです。いつまでも残るものは信仰、希望、愛だからです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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