神のいのちに生きる
2022.03.13
◎ヨハネの福音書17:1~5
“いのち”は私たちの生きる源、力、原動力です。イエスのいのちは闇に輝く光です。私たちがイエスを知り、イエスは私の罪からの救い主と信じるとき、私たちのうちに永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、今地上に生きるこの命…いま息をし、心臓が動き、生きている、この命も神様が創られた尊いものです。しかし、永遠のいのちは地上の命が終わってからもずっと続くものです。御子イエス・キリストが十字架の上で、ご自分を完全に父なる神へ捧げられたのは、この永遠のいのちが私たちのものとなるためなのです。イエスは、全くご自分を父なる神のものと(=聖別)されました。私たちのためにご自分を捧げられたほどの、この神の愛にまさるものはこの世にはありません。この神の大きな愛によって、神のものとされ、一つとされたとき、私たちの生き方も、イエスに似たものへとされていくのです。永遠のいのちもまた、私たちの生きる源となるはずだからです。とは言っても、私たちは、キリストによるのでない自由を選ぼうとする誘惑があります。イエスのいのちに生きるとは、世の人に気に入られる自由とは異なるものです。また、平和を求めても、その人自身が神との平和を持っていないのであれば、どうして本当の平和があるのでしょうか。神は、私たちに『この世と調子を合わせてはいけません』(ロマ12:2)と言われています。世の中で上がる声、平和、自由、愛、どれもすばらしいものです。しかし、私たちのうちにある永遠のいのちは、この世のものではないことを覚えたいです。『わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。』私たちは強くて偉いからそう言うのでしょうか。そんなことはあり得ないことです。むしろ弱いものです。私たちのうちにある神のいのちが原動力となり、世ではなく神に同調することを望むのです。違いを見せつける必要もありません。それは傲慢となってしまうでしょう。ただ私たちは、神様との日々の絶え間ない交わりによって、神のいのちがますます私たちの内から輝きあふれることを求める者でありたいです。イエスの十字架の恵みを受け取りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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