神の御子を拒む罪
2022.11.20
◎ルカの福音書20:9~19
1〜8節でのユダヤ人指導者たちからの、イエスは何の権威によって活動しているのかという質問に、主は直接答えることはなさいませんでした。その代わりにたとえを話されました。農園主と小作人のたとえです。これもまた、当時の社会状況を反映したわかりやすいたとえでした。農園主と小作人は対立関係になりやすいものでした。その中間で売り上げの精算などをするしもべがいて、農園主が収穫の時になって、しもべを遣わすと、小作人たちはしもべを酷い目に合わせて支払うべきものを支払わないというのです。小作人たちのしもべへの抵抗は、痛めつける、辱める、傷を負わせると、どんどん激しくなります。ここで農園主とは神のことであり、小作人はイスラエルの民、しもべは預言者たちのことです。そしてついに独り子が遣わされるとそれを殺してしまうのです。13節に神のイスラエルに対する切ないほどの思いが表されています。これまで預言者の言うことを全く聞いてこなかったイスラエルでも、それでも悔い改めを期待して、そして神の独り子の言葉なら受け入れてくれるだろうと信頼して、御子イエスを送られたのです。これがまことの権威者の姿です。どこまでも神のしもべイスラエルを信頼し、イスラエルを愛する契約に忠実でいようとしてくださるのです。私たちが選ぶ前に私たちを選んでくださり、私たちが愛する前に私たちを愛してくださり、私たちが信じる前に私たちを信じてくださるのが、まことの権威者なる神のあり方なのです。それでもイスラエルはイエスさまを拒んだので紀元70年のエルサレム陥落とイスラエル国の滅亡という刈り取りをしなければなりませんでした。イスラエル自身が人々に捨てられた石として、しかし、そのような小さな民が諸国民の光となるという約束であったのに、彼らがそれを拒んだので、まことのしもべイスラエルとして、イエスさまが来てくださり、イエスを信じる教会が要石とされて高く掲げられ、世の光となるようにされたのです。罪の本質というのは、悪い行いをすることしないことといった次元ではなく、神の深い愛、切ないほどにイスラエルを慕い、私たちを慕ってくださる神の御思いに無関心でいることなのです。この神の愛に応えて、世の光として、イエスの御名を高く掲げ、イスラエルにねたみを起こさせるほどの関係を、神さまと共に歩んでいきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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