神の栄光のために
2021.08.08
◎ヨハネの福音書9:1~12
目の見えない人の目が開かれる、それは神の輝かしいみわざです。さらにここで神が語るのは、心の目=霊的な目が閉ざされていることがどれほど不幸であるか、です。イエスは暗闇を照らすまことの光としてこの世に来られました。霊の目が閉ざされた私たちには、光が必要不可欠だからです。『この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。』弟子たちはイエスの愛に目が閉ざされていました。そうでなければ、目の見えない人を前に、私は目が見えるからこの人よりも幸せで罪がありません。とは言わないはずです。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』イエスは、私たちとは全く違う視線で人を見ておられます。弟子たちの目が開かれるためにも、イエスは、目が見えない彼をあわれんで近寄り、目を開かれるのです。私たちは、自分の弱さが照らされるとき、こんな弱く欠けだらけの私が赦され愛され、生かす神を知ります。この後、目の見えない人は、イエスのなされるままに、まぶたに泥を塗られ、イエスの言われた通りに、シロアムの池に行って目を洗い、見えるようになります。彼はイエスに出会い、神のみわざを体験しました。神の栄光が現れるのはさらにこの後です。目が開かれると、癒しの喜びよりも、イエスが自分に何をして、イエスがどんなお方なのかをひたすら証しし続けました。ののしるパリサイ人にもめげずにです。イエスは言われます。『「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』私の方が神を知っているのだ、と高ぶるパリサイ人は、自分自身を神の愛の招きから遠ざけ、結果的に自分をさばくのです。『人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。』と言われている通りです(箴言18:12)。イエスは私たちの弱さや欠けをも、神の栄光をあらわす機会としてくださるのです。イエスのなされた真実を、いつでもお証しできるように知恵と力と勇気を求めていきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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