立ち直れ、何度でも
2023.07.02
◎ルカ22:31-34、54-62
イスカリオテのユダの裏切りに続いて、筆頭弟子のペテロの裏切りを見ていきます。サタンはペテロを誘惑する(ふるいにかける)にあたって神さまの許可を得たようです。悪魔といえど、神さまの許しなしには何もできないことがわかります(ヨブ記参照)。なぜ神さまはそのような悪魔のしわざをやめさせてくれないのでしょうか。答えはわかりません。ペテロ自身も自分がまさまイエスさまを裏切ることになろうとは思っていませんでした。自信満々にイエスさまにどこまでも従うつもりと答えます。事実、イエスさまと一緒に抵抗して戦って死ぬつもりだったのでしょうか、捕らえに来た兵士に撃ちかかりました。けれどもイエスさまに制止されると、ペテロはどうやってイエスさまへの忠誠を示せば良いかわからなくなりました。神殿やローマの権威に抵抗する英雄的死なら受け入れたかもしれません。けれどもイエスさまのように何も抵抗せずに処刑されることには従えなかったのでしょうか。イエスさまが語られた隣人を愛する神の愛をどのように表すかがわからなかったのです。自分は兵士に撃ちかかった前科があるので、面が割れています。こっそりイエスさまの様子を見についていきますが、弟子の一味であることを指摘されるとイエスさまを三度否みました。鶏が鳴いたその時、ペテロイエスさまの予告を思い出して大泣きしました。イエスさまを裏切ったのは、ユダヤペテロだけではありません。他の弟子たちも散り散りになったのです。十字架の最後まで見届けたのは女性の弟子たちとヨハネだけだったようです。私たちもその時代、その場所にいたらどうだったでしょうか。そして、今はどうでしょうか。イエスさまが十字架にかからなければ救われないほどの罪深い私たちです。ペテロはその後どうなったかは福音書の続きや使徒の働きに書かれていますが、イエスさまの予告と祈りの通りに立ち直ったのです。そして兄弟たちを力づけ助ける人に変えられたのです。ペテロの裏切りはペテロにとっては“黒歴史”ですが、聖書はそれを正面から描くのです。偉大な使徒でも王でも罪や失敗を聖書は隠しません。そのことによって、それでも立ち直らせてくださる神の愛とあわれみ、聖霊の力に目が向けられます。私たちも罪を犯します。何度も失敗します。そのたびに私たちの目の前にイエスさまの十字架が立ち上ってくるのです。何度でも立ち直れる力を、主からいただくことができ、そして兄弟を力付けることもできるのです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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