贖いの代価
- みたまキリスト教会

- 10月8日
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2025.08.17
「贖いの代価」
◎レビ16:6-10
今朝の箇所から、人間の罪深さと神の聖さの隔たりを埋める、イエス・キリストによる完全な贖いについて教えられます。日本人は土着の信仰と仏教の融合から「因果応報」や「自業自得」といった思想に縛られ、自らの努力で罪を償おうとしたり、先祖や子孫の救いが功徳を積むことで得られると考えます。福音は、そのような呪縛から人を救います。人間が自力で罪に勝利することは不可能であり、根本的な解決にはならないと聖書は教えます。福音が示すのは、神の一方的な恵みとあわれみによって無償で与えられる救いです。その核心は「キリストが身代わりになられたこと」です。旧約聖書の「贖罪の日」には二頭の雄山羊が用いられました。一つは「主のために」罪の代価として屠られ、その血で神の怒りがなだめられることを象徴し、もう一つは「アザゼルのために」民の罪を背負って荒野に放たれ、罪が共同体から完全に除去されることを表しました。イエス・キリストは、罪なきご自身が身代わり となり十字架にかけられ、血をもって罪の代価を完全に支払い、神の義の要求を満たされました。そして「ただ一度の十字架の贖い」が「永遠の贖い」を成し遂げ、過去、現在、未来のすべての罪を解決されたのです。マルコ 10 章 45 節にあるように、主イエスは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」に来られました。神は、私たちが誰一人滅びることを望まず、その愛と正義の葛藤の中で、ひとり子イエスを犠牲にされました。 一方で、人間の罪深い現実として、ロマ書1章の「罪に引き渡される」裁きは、神を拒絶する人間がその心の欲望のままに放置され、罪が蔓延していく姿を描写します。野に放たれ、草の根まで食い尽くし、ついには崖から落ちて死ぬアザゼルの山羊のように、罪のまま生きることは破滅へと向かいます。しかし、主は、そのような私たちを諦めきれませんでした。人間の目には一貫性がないように見えても、そこには、ご自身の御子イエスの命をもって私たちを救おうとする、神の揺るぎない、徹底した愛があるのです。この愛が私たちを山羊から羊へと変え、良い羊飼いの招きに応え、感謝と賛美を捧げる清められた共同体へと導いてくださいます。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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