足を洗い合うほどの愛
2021.12.05
◎ヨハネの福音書13:1~17
十字架で死なれる前夜、イエスは弟子たちの足を洗われます。足というものは汚く、そ の足で触れられることは嫌なものです。私自身幼少の頃は、家の中が汚れるから足を拭き なさいと、上がる前に釘を刺されていました。2000年前は、履物は粗末、道はボコボコの砂まみれ。大人でも外を歩けば足は真っ黒だったでしょう。その汚れた足を洗うのは奴隷の仕事でした。ところが、イエスは弟子の前で腰をかがめて、その汚い足に触れ、洗い始めます。イエスの行動と思いを理解できないペテロに「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」と優しく答えるイエス。このイエスの姿こそ、仕える者の姿であり、真の謙遜と愛のあらわれです。もし、弟子たちの間で逆のことが起こっていたら…自分たちすらしようと思わなかったことを、先生にさせているぞと、自分を高く上げ裁き合うなら、破壊的な対立が生まれていたでしょう。弟子たちが理解できなくても、イエスは語り続けます。『全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。』イエスの十字架の救いの完全性を伝えつつ(ヘブル10:10)、『あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。』とさらなるチャレンジを与えられます。自分の足を洗うのはいつでもできることですが、互いに洗い合うとなると、ぐんとハードルがあがります。だからこそ、イエスから目をそらさないでいたいと思います。イエスは、サタンに囚われたイスカリオテのユダにも、最後の最後まで愛を注ぎ続けました。誰にでもある弱さや欠け(足の汚れ)、それすらも愛で包むイエス。十字架で罪赦されている者には、聖霊によってこの特権が与えられています。頑なな私は、不本意にも嫌っていた父の足に触れ看病させられたときに、私の汚れた足を愛される、神の愛と赦しに目が開かれ、抗いようもない父への尊敬と愛を与えられてしまいました。イエスの愛と謙遜こそ、私たちを隣人の非を責める生き方から解放し、お互いの間に神の愛を溢れさせる、神の恵みです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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