「十字架の重み、恵みのとりなし」
2023.03.12
◎Ⅰサムエル14:1~15
神様の選びで王となり、聖霊に満ち謙遜で寛容であったサウルは、自分に従い神様の命令を無視してしまいます(=罪)。(①サムエル13:14)悲しいことに、サウルは神様の前に自分の過ち(=罪)を認めません。罪を神様に隠し続けるなら、喜びと祝福を自ら手放して歩むことになってしまいます。(箴言28:13)民の心は離れ、挙句の果てには、強敵ペリシテ人に大金を払い武器を研いでもらう…意味不明な混乱を招きます。そんな中、サウルの息子ヨナタンは、神様と共に歩み、道具持ちの二人だけで大勝利。その背後では、無慈悲な命令で民を飢渇に追込み苦しめる父、サウルの姿が。今やサウルは、私のために復讐しろと自分主体になり、ついには空腹に耐えかねた民たちに罪を犯させます。(14:32)私たちは、“私はこうしたい、でも神様はどう思われますか?”と、神様を第一に考え行動することが大事です。神様は、イスラエルを祝福し、周りの国々にも祝福を流すために、乳と蜜の流れる地へと導かれたのに、罪を隠すサウルの言動は、神の祝福を拒ませ(14:26)、自分の間違いに鈍感になり罪を重ねさせます。神様の愛の招きを無視し続けるサウルは、ヨナタンを嫉み、さばき、罪をなすりつけ殺そうとします。この姿の本質は、初めの人間を堕落させた罪と同じです。自分はしていない。あの人が悪い。罪に気づかされたならば、『もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。』(①ヨハネ1:8,9)サウルに怯えても、民は神様の約束を心に留め(12:24,25)、蜜で神様から祝福されたヨナタンを思い出し(14:27)、ヨナタンをとりなし命を救います。とりなし(仲裁)と聞く時、その背後で既にとりな(仲裁)し祈られているイエス様を覚えたいです。人として来られるのは、サウルにとっては1000年後ですが。たった一度のイエス様の十字架の犠牲は、完全で完璧な救いです。救い対象外の人は、誰一人いません。世界の始まりから終わりまで、誰一人です。神様は今も昔も、神なんて知らないと神から離れる者を、その罪から救おうと招いてくださいます。私たちのために命を捨てたイエス様が、とりなし祈っていてくださるのです。イエス様の祈りにあわせて、私たちもお互いの祝福を祈り、未だイエス様と出会っていない方々のためにとりなす私たちと聖霊様、成してください。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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