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それでも主は導かれる

  • 執筆者の写真: みたまキリスト教会
    みたまキリスト教会
  • 6月17日
  • 読了時間: 2分

2025.06.08

「それでも主は導かれる」

◎ ルカ5:1-11

信仰の始まりは各人それぞれです。大きな試練の中で教会へ導かれ、劇的な回心をされた方がいらっしゃれば、母親のお腹の中にいるときから教会へ通い、何の疑いもなく信仰を持った方もいらっしゃいます。では、ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師であったシモンはどうだったのでしょうか。イエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃったとき、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」とシモ ンは答えました。「でも、おことばですので …」という言葉をもって、シモンの信仰生活が始まりました。「はい、わかりました」という素直な応答ではありません。シモンは、夜が明けてから漁に出かけるのはありえないと思ったことでしょうし、夜通し働いて収穫がなかったことから心身ともに疲れていたはずです。しかし、しゅうとめがイエス様に癒されたからでしょうか(ルカ4:38~39)、イエス様が語られたメッセージをすぐそばで聞いたからでしょうか(ルカ5:3)、シモンは「でも、おことばですので…」と言って、深みに漕ぎ出しました。このときのシモンは最初から積極的にイエス様を信じていたとは思われません。もしそうであるならば、大漁の奇跡を経験しても、驚くことがなかったはずだからです。しかし、イエス様はそういうシモンを導かれました。大漁の奇跡を経験し、イエス様の足もとにひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったシモンであっても、イエス様は拒まれることなく、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」とおっしゃり、シモンをご自身の働きのために用いられました。信仰の始まりは小さく、完璧ではなかったとしても、イエス様は私たちを導かれます。信仰生活の中で罪を示され、自分という存在が愚かで、惨めであったことを自覚しても、それでもイエス様は私たちを拒まれません。ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えるにあたり、そのことを御言葉によって再確認しましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・岸本大樹師>

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