「献金について」
2023.04.23
◎ルカ21:1~4
イエスさまは人々が献金箱にお金を投げ入れるのを眺めていました。金持ちたちが大金を入れる一方、とあるやもめの女性がレプタ銅貨二枚を投げ入れました。それはとても小さな額でしたが、しかし、その人の全財産でした。イエスさまはその人の行動とその背後にある信仰を認められました。2017年訳では彼女は「持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と訳され、彼女のしたことの尊さがよくわかるようになりました。献金は額の大小にかかわらず、自分自身(心、人生、献身)をささげることにこそ、神の喜びがあるのだということを教えられます。あの事件以来、宗教団体において“すべてをささげる”ということはデリケートなテーマになりました。十分の一献金という教会のよき慣習と伝統もあまり歓迎されなくなってきた感もあります。こういう時代だからこそ、献金について、聖書的に考えていきましょう。献金は喜びであり祝福を伴うものです。ささげることができる何かが与えられているということが感謝であり、祝福です。力をささげ、時間をささげ、金銭をささげ、生きる手立てのすべてをささげて、神の栄光を表していくことが喜びです。神さまもまた、私たちのささげものを喜んで受けてくださり、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。神を喜び、神に喜ばれる、愛の交わりなのです。十分の一献金はマラキ書3章10節で勧められています。最初の十分の一のささげものは、律法や戒律ではなく、アブラムがサレムの王メルキゼデク(天的な存在を思わせる不思議な人物、創世 記14:18-20)に贈った贈り物でした。贖いの代価はイエス・キリストの十字架ですべて支払われたので、私たちが何か義務的に支払うべきものもありません。十分の一はあくまでも目安であり、縛られるべき義務ではありません。また十分の一は神のもので、十分の九は私のものというわけでもありません。十分の十が神さまのものです。私たちは神さまのタラントをお預かりしているにすぎないのです。イエスさまご自身が、律法学者やパリサイ人が偽善的、義務的、形式的に十分の一のささげものをしているのを戒めながらも、「十分の一もおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)と言っておられます。大切なのはどこまでいってもいつの時代でも神さまを愛する心です。「いやいやながら…強いられて」なら、しないほうがましです。「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリ9:7)<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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