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執筆者の写真みたまキリスト教会

あの世からの声ではなく

2022.05.29



◎ルカの福音書16:19~31

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい」というみことばがあります(伝7:2)。召天者記念礼拝には喪中の家のような厳粛な雰囲気があるでしょうか。先のみことばはこう続きます。「そこにはすべての人の終りがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」。今日は私たち自身の死と生に向き合う時です。聖書では特に主イエスによって、神の国、平たく言えば天国のことが多く語られています。しかし、そこがどういうところであるかの描写は多くはありません。しかし、はっきりと、死後のいのち、あるいは死後の滅びについては書かれています(ヘブ9:27、ヨハ 5:24-29)。人は死後ただちに天国または地獄に行くのではないようです。その中間の場所(状態?)があるようです。今日の譬え話の中において、金持ちは死んで「よみ」に行きそこで苦しみます。かたや貧しい人ラザロ(名の由来「神の憐みによって生きる」の意)は、「アブラハムの懐」という場所で安らいでいます。金持ちは贅沢に遊び暮らしていましたが、富める者の最低限の義務としてラザロが門前に居ることを許容し食卓の残りを食べられるようにはしていました。それ以上の積極的な助けはしませんでしたが、私たちはこの金持ちとは違うと言い切れるでしょうか。また、中間状態ですでに、苦しみの場所と慰めの場所に分けられ、そして互いに行き来はできないようです。我々が「あの世」と呼ぶようなその場所から、誰かを遣わして、金持ちの人の兄弟たちまでがこんな苦しい思いをしないように警告して欲しいと、金持ちはアブラハムに頼みます。しかし、神さまは譬え話のアブラハムを通して言います。聖書があるではないかと。モーセと預言者たちを通して警告したではないかと。聖書の神の声に聞き従うことがないなら、たとえ亡霊が現れて何を言っても聞きはしないだろうというのです。私たちもあの世からの声ではなく、今ここで聞くことのできる神の声、聖書のことばに聞き従いましょう。そして先に召された親兄弟たちが、その人生をかけて、命をかけてでも伝えたいと願っていた福音のことばを思い出し、この地に遺してくれた言葉に聞きましょう。この譬えの結末に反して主イエスは、十字架の死後、よみから帰り、復活のからだを見せ永遠の命を証明してくださいました。その目撃者たち を通して語られた神に聞き従いましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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