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執筆者の写真みたまキリスト教会

ちゃんとしてる?

2022.08.07



◎ルカの福音書18:9~17

ちゃんとしているかどうか、自分についても他人についても気になる、そんな時代の風潮です。もちろんちゃんとしていないといけない時と場面はあります。しかし、いつでもちゃんとしていないといけないのは、とても疲れることではないでしょうか。疲れた人を招かれるイエスさまのもとへと進み出ていきましょう。今日の箇所は祈りについての教えです。ルカはここでも先に結論を書いています。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」それではいけないよということをイエスさまは話され、そのような心の有り様が一番現れてくるのが祈りだと言われたのです。これはたとえ話だということですが、とてもリアルに描かれています。登場人物はパリサイ人と取税人。片やとてもちゃんとしている人、そしてもう一方は、ちゃんとできないでいることに苦しんでいる人。こういう対比がなされて、私はさてどちらのタイプか?という読み方をするかもしれません。両者ともに祈るのですが、イエスさまはこの場合に義とされたのは取税人の方だと言われたのです。ちゃんとできない自分を恥じて、それでも神さまに心を注ぎ出して、神さまあわれんでくださいと心で叫ぶ。それでいいのだよ。そんな話に落ち着くかもしれません。しかし、そこで罪深い私たちの内には奇妙な逆転現象が起きます。私がこのパリサイ人のような高慢な者でないことを感謝しますと誇るような。そのような態度は祈りにも現れるし、現実の人間関係にも現れてきます。真面目な人や、良い行いに励む人を、あの人はパリサイ人タイプだと裁いたりするのです。ちゃんとしているか、していないかが問題ではないのです。神の基準においては誰もちゃんとできないのです。取税人はそのことを骨の髄まで身に沁みて自覚していたので、自分に失望し、かと言って取税人を辞めることもできない、自分ではどうにもできない弱さの中で天を見上げることもできず、ただただ、胸を叩きながら神のあわれみ深さに賭けるしかなかったのです。ちゃんとしなきゃいけないという思いが強くあるのに、それができない。そうやって泣きじゃくる子どものままの姿が私たちの心の中にはあるのです。神の国(統治)を受け入れるなら神の子どもに造り変えられます。ありのままの自分をさらけ出して、他の人など誰も目に入らないほどの真剣さで神を求めて参りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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