なすべきことをしなさい
2022.07.03
◎ルカの福音書17:1~10
今日の結論から言いますと、「神は、なすべきことをしなさいと言われるからには、そのための信仰と力を与えてくださる」ということです。本日の箇所ではまず、つまずきの問題を取り扱っています。赦された罪人の集まりである教会においてさえ、つまずきは避けられません。うっかりや過失の場合もあれば、故意や悪意のある場合もあるでしょう。故意に人をつまずかせる(別訳「誘惑する」)ような者は石臼をくくりつけて海に沈める方がましだとまで言います。自分自身が誰かのつまずきになっていないか、「自分自身に気をつけなさい」とはここだけでなく別の箇所(参照使徒20:28)でも言われています。しかし今日の個所では「つまずきは避けられない」と現実問題として捉えた上で、それでも互いに赦し合いなさいと勧めるのです。一日に七回(二時間おきに!?)つまずかされても、です。そんな人を赦さなければならないなど、無理難題と思ったのでしょうか。弟子たちはイエスさまに「私たちの信仰を増し加えてください!」とお願いします。するとイエスさまは「どうして無理なんだい?」とばかりに答えられました。すでに信仰はあなたがたのうちにあるではないかと。からし種のような小さな信仰でも、それがあるならば桑の木に動いて海の中に入れと言えばそのようになると言うのです。それこそ無理難題ですが、あなたがたにはすでに信仰も与えた、賜物も与えた、聖霊も共におられる、だから無理ではないと言うのです。上から外から増し加えられなくても、内におられるキリストのみたまが奇跡を可能にするというのです。赦せない人、愛せない人を、赦そう、愛そうと思い始めている時点でもう桑の木は動き始めているのです。主人である神さまが私たちのためにいちいち甲斐甲斐しく世話をしないでしょう。すでに預けた信仰とタラントを用いて、主人の帰りを待ちながら、隣人や兄弟姉妹に仕えなさいと言われます。それはしもべとして当然のことなのです。主人はそれに感謝はしないと言われます。冷淡な主人でしょうか。そうではありません。むしろそれぐらいのことはして当然と、私たちに期待し、信頼してくださっている証しであります。しもべとしてなすべきことを当然のように完遂することができたら、それは大きな喜びです。主が来られる時には安心して眠りにつくことができるでしょう。人を建て、教会を建て、御国を建て、なすべきことに打ち込んで参りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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