イエスは泣いている
2022.10.23
◎ルカの福音書19:41~48
イエスさまが涙を流されたのは、この箇所とラザロの死に直面した時です。ラザロの時は、大切な友人が死んでしまったこともあるでしょうけれども、ご自身の造られた世界に入り込んだ罪と死に対する憤りと悲しみの涙であったと思います。今朝のところでは、イエスさまはエルサレムのために泣かれました。神であられるイエスさまの予知により、イスラエル国の滅亡を嘆いたものでした。実際の歴史においては紀元70年にエルサレムが陥落しました。このあとの“宮きよめ”の記事と合わせて、イザヤ書56章が下敷きになっていると思われます。イスラエルは「神の見張り人は目が見えず、何も知らない」とあるように、誰もその時を悟ることができませんでした。誰もが自分勝手な道を向かって行くというのです。今の世を見ても、イエスさまは泣いておられるでしょうか。誰もが自分勝手な道を行くのがまさに現代だからです。普遍的な真理などはなく、何事も相対的であり、それぞれにそれぞれの真理があるので、互いに干渉しないというのがマナーのようになっています。そのような中で、神は唯一であり、救いの道も唯一であり、それはイエス・キリストを主と信じることだけであると語らなければならないのです。嫌われたり避けられたりすることでしょう。イエスさまと共に泣きたくもなります。それは自分が理解されないことからではなく、愛する家族や友人が滅びに向かっていくことに対する悲しみです。次の場面ではイエスさまは神殿で怒り荒ぶっています。神殿でささげるいけにえやや献金を両替する商人が金儲けをしていたからです。それは霊感商法とは違う、神殿礼拝には必要なシステムではありましたが、システム、制度が整い便利になるなかで、むしろ信仰と霊性は後退していきました。そのことに対する憤りであったのです。教会は「祈りの家」と呼ばれるものです。家には家族がいます。そしてそこには交わりがあります。唯一の神さまを共に見上げる家族が、主イエスを中心とした交わりをするのです。そしてそこに祈りが生まれます。その交わりは広がりゆくものです。たくさんの人々がこの交わりに加わるように、祈りの家の設計図を夢に描いて、皆で教会を建てあげていきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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