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執筆者の写真みたまキリスト教会

主が来られる日まで

2022.10.02



◎ルカの福音書19:11~27

「ミナのたとえ」と言われるところですが、イエスさまはこれを時事問題を絡めながら話されました。実際にユダヤ人の王(ヘロデなど)が王位を授けられるためにはローマにまで行く必要がありましたし、王になった後、反対派を粛清したりしました。そのあたりが譬え話のなかにも織り込まれていて、当時の人々の関心をなおさら惹きつけたのではないかと思います。「タラントのたとえ」ともよく似ていますが、違うところは、単価の違いと、差分があるかどうかです。ミナのたとえでは皆に同じ額が預けられるのです。タラントはそれぞれに預けられる分が違うので賜物としての才能や財力などのことと思えます。しかし、ミナは十人の人に等しく一ミナずつ与えられます。これは何を指しているのでしょうか。すべてのクリスチャンに等しく与えられているのは、福音の光と救いの喜びではないでしょうか。それは誰もが同じです。それを用いて商売(増やすこと)をしなさいと言うのです。私たちが救われたのは、その喜びと幸いを自分だけの満足のために用いるのではなく、それを使って増やして広げていくことが期待されているのです。十人のうち、三人がサンプルとして挙げられます。十(ギリシャ語:デカ)ミナ儲けた者にはデカポリス(十の町)という莫大な褒美が与えられました。天の御国で受ける報酬は私たちの想像をはるかに超えてすばらしいことでしょう。しかし、タラントのたとえ同様、うまくやらなかった者がいます。そしてその者の結末は同じです。しかし、ルカの方ではその者の最後の言葉にもののあわれを感じます。「怖かった」と言うのです。彼は神に対する信頼関係を築くことがなく、神は自分を抑圧し、ないところからむしりとる、恐ろしい方と思ってしまったのです。それで失敗を咎められることを恐れて包みに入れてミナを用いなかったのです。普通の読み方では彼を反面教師にするべきなのですが、実際にこういう考えのクリスチャンがいるのを見るときに、もう一つの問題を覚えます。それは、そのように神を信頼できず恐怖で縮こまるような信仰生活を送っている兄弟姉妹を放ってほいてよいのかということです。その人の自己責任だというなら教会はいらないのです。私たちは励まし、慰め、戒め、愛し合うためにこそ集められたのです。ミナを用いて仲間には励ましを、未信者には福音を広めていきましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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