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執筆者の写真みたまキリスト教会

主について行く値打ち

2022.05.01



◎ルカの福音書14:25~35

「主についていく値打ち」について、自分の人生を賭けて、いのちを捨ててでもイエスさまについていく値打ちがあるのか「まず座って」よく考えよと、イエスさまは群衆に向かって言われました。まるでふるいにかけるように、非常にむずかしいお言葉を語られました。父母、妻(夫)、子ども、兄弟姉妹を憎んで、自分の命すら憎んででもわたしを愛するかと問われたのです。そうでなければイエスさまの弟子にはなれないと言うわけです。「愛する/憎む」についての語感が私たちとは違うところがあります。愛するということには二番目に好きということはなく、愛している者以外は、憎むと言うのです。そこに憎悪の感情はないのですが、二の次にするというような意味のようなのです。ですから、イエスさまのもとに来て、イエスを主とあがめ一番にするのでなければ、神の国とその義とをまず第一にするのでなければ、イエスさまの弟子にも神の国の民にもなれないのです。そうして「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と言われました。現場にいた人はローマの処刑法である十字架を思い浮かべたでしょう。イエスを筆頭にローマに叛逆し討死する覚悟はあるかと誤解したかもしれません。塔を建て始めたら完成するまでやり遂げるのか、あるいは不利な戦いを挑まれたら講和の条件を交渉するのではないかと、譬えを用いて語られました。当時の人たちはローマ帝国相手に“御馬前討死”の覚悟の見積をしたかもしれません。しかし私たちは聖書を通して十字架と復活の意味を知り、聖霊の導きによりこれがどういう意味かを理解しています。自己中心的な生き方をしていた自分に死ぬということです。その信仰に生きる姿勢を貫き通すことができるか、そしてそうするだけの値打ちがイエスにあるかどうか損得勘定をせよということです。イエスさまにすべてを明け渡すとどうなるか、損得勘定をしてみましょう。より父母を愛するようになるのです。より妻を子を友を愛するようになるのです。そのために必要なものはすべて主が豊かに与えてくださるのです。そして私たちは「地の塩」になります。塩は溶けてなくなることで塩気をつけます。味気ない世に味をつけ、腐敗を防ぐのです。自我に死ぬことで私たちは塩として用いられるのです。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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