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執筆者の写真みたまキリスト教会

主の安息に生きる

2022.03.20



◎ルカの福音書13:10~21

清和キリスト教会5つのビジョンの中に「私たちの教会は、人々に主にある安息をもたらす 教会です」というものを掲げています。教会に来たらほっとする、のんびりリラックスできる、そんな場所でありたいと願います。イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われて人々を招かれました。そのみことばに従って、教会も人々を招き入れていきたいと思います。しかし、人々の教会に対するイメージには「なんだか窮屈そう」というものがあります。キリスト教に限らず宗教全般へのイメージかもしれませんが、どうしてそのようなイメージになってしまうのでしょうか。聖書には「十戒」というものがあります。十の戒めと理解されていますが、原語は「十のことば」です。確かに命令形で書かれているので、自由を制限されたり束縛されたりするイメージになってしまうのかもしれませんが、根底には神さまの愛があります。私たちが自分自身の蒔いた過ちの種によって苦しみの実を刈り取ることがないための囲いなので、頑丈な硬さが必要なのだとも言えます。今日の箇所では安息日の教えが問題になっています。安息日にイエスさまが18年間腰が曲がったまま苦しんでいた女性を癒したことが発端でした。安息日に仕事をするのは禁じられていて、人を癒すことはそれにあたると言うのです。会堂司は責任者らしく、自分の管理する会堂でそのような十戒破りが行われたことを責めました。しかし、そこには長く苦しんだ女性が解放されたことへの喜びや、神のみわざがなされたことへの感謝と賛美は少しも見られません。安息日は、それを守って自分自身の宗教的正しさを証明してみせる日ではありません。安息日は「人々を休ませる日」です。安息日にこそ解放が起こるべきなのです。それなのに、当然起こるはずべきことが会堂礼拝ではまったく見られなかったのです。イエスさまがそう指摘されると、反対していた人たち(宗教家たち)は恥入り、群衆は輝かしいみわざを喜んだのです。当然起こるべきはずの愛のわざが教会で起きていれば、神の国はからし種のように大きくなり、人々がそこを止まり木とします。パン種のようにふくらみ、喜びと感謝と神への賛美が広まります。主の安息に生きる者となりましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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