初めの愛に
2023.01.22
◎ヨハネの黙示録2:1~7
2章からは、七つの教会へのメッセージが語られます。七つの金の燭台はその七つの教会のことです。そして主はその中心を歩かれる、共におられる方です。最初の使信はエペソの教会へです。エペソ教会と言えば、パウロ伝道の時代は「愛の教会」として歩んでいました(エペソ1:15)。また、エペソという街は良港のある都市、豊かであり、またアルテミス神殿のある偶像崇拝の街でもありました。現代日本の退廃した部分にも通ずるところがあります。そのような中でエペソ教会は信仰の戦いを「労苦と忍耐」(2)をもって戦っていました。そのことを主はエペソ教会のほめられるべきところとして挙げてくださいますが、しかし、それは同時にエペソ教会の欠点にもなっていきました。偽使徒を見破り、教理的、教条的な信仰を守ろうとするあまり、他者に対する寛容さを失ってしまったようです。行為義認のような律法主義(ユダヤ主義)から離れられない、あるいは福音から離れ戻ってしまう(ペテロも危うかったがパウロに叱責されて立ち返った)そういう者たちもいれば、ニコライ派という人たちもいました。それ自体はどういう派閥なのかは分かりませんが、「ニカオー」「ラオス」という単語の合成と考えると「勝利の民」という意味になります。良い言葉のようにも聞こえますが、もしかしたら安っぽい勝利、罪と向き合うこともなく悔い改めることもない(故に十字架の勝利も関係なくなる)、現代流に言えば根拠のないポジティブシンキングみたいなものだったかも知れません。そういう両極端(それを異端と呼ぶ)との戦いの中で、エペソ教会は「初めの愛から離れてしまった」(4)というのです。厳しく正しくなりすぎてしまったのです(箴言7:16参照)。忍耐深く諭し、寛容に赦し、それでも愛をもって責めるということができなくなったのでしょう。それで主はエペソ教会に、信仰の戦いで正義を求めたことはほめつつも、愛を失うことのないように語られたのです(箴言7:18)。「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(Ⅰテモテ6:12)ともありますが、立派に戦うという時の私たちの「立派」観には見栄が入り込むのではないでしょうか。それで必要以上に自分にも他人にも厳しく不寛容になるのではないでしょうか。「獲得しなさい」と言われればなおさら頑張りイズムに陥ります。しかし、信仰の馳場は転んでもつまずいてもゴールさえすれば勝利です。イエスさまの手を握り続けることです。つまずいた友は起こしてあげましょう。「さあ、子どもたちキリストにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません」(Ⅰヨハネ2:28)<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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