平和をつくる者
2022.05.08
◎ヤコブの手紙3:13~4:3 おはようございます。今朝もともにみことばに聞いて参りましょう。本日の主題は「平和をつくる者」とさせていただきました。山上の説教に有名な一節がありますが、そちらは「平和をつくる者はさいわいです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」となっていますね。先週、お休みを頂いて、平塚に帰省しました。三日に京都を出たのですが、高速に乗る前に三条通あたりでデモ行進の一団に出会しました。憲法記念日でしたからでしょうか。「ロシアはウクライナ侵攻をやめろー」と叫んでいましたが、日本人にそれを訴えてもなあと思いながら、でしたが、しかし、日本もロシアと国境を接していて北方領土の問題もあります。また中国が台湾との絡みでどうにかなるのかとか、北朝鮮 はミサイルを日本海にボンボン打ち込んで、ゴミみたいなミサイルの海洋不法投棄をやめません。ロシアのウクライナ侵攻にあって、アメリカやNATOの姿勢はよく言えば冷静な対応、見方によってはおよび腰とも言えるもので、じゃあ、アメリカの日米安保に頼り切った今の国防政策でいいのかという議論が出てくるのは必至でありました。それを牽制するかのようにおそらく共産党系のデモ隊なのだと思うのですが、「九条改憲反対」を叫ぶのであります。「自衛隊員を殺すなー!」「自衛隊員に殺させるなー!」と叫んでいましたが、「代わりにアメリカ兵に死んでもらえー!」と叫ぶことをしないのはフェアでないような気もしまし た。侵略戦争を禁じた九条は尊いものだと思いますが、自分たちの国を自分たちで守るということや、そのためにどうしたら良いかをもっとオープンに議論しなければならないと思いました。
マタイの方の平和をつくる者というのは、ピースメーカーズと英語ではなっています。ところが、アメリカでは爆撃機や、拳銃の名前として、ピースメーカーという名前が用いられているのです。そこには力を行使することによって平和を維持するという考えがあります。日本でもPKO法案と呼ばれるものもありました が、ピースキーピングオペレーションの略で、直訳すると平和維持作戦ですが、今のところは後方支援にとどめるということでなんとか歯止めができています。自衛隊が出て行って武力介入に参加しても、せいぜい現状維持作戦が関の山で、平和をつくることとは程遠いものであると思います。
平和をつくる者 戦争というのは、やったとかやられたとか、やられたらやり返すとか、やられる前にやるとかそういう世界ですが、今朝の箇所の前に、創世記二六章でのイサクの態度から、「平和をつくる者としてのヒントが得られるように思います。
創26:12〜14節 イサクは神の命令に従って、エジプト行きを捨て、ゲラルの地に留まりました。そして、神は約束の通り、イサクを祝福されたので、イサクは「非常に裕福に」なりました。主は、主に従う者を確かに守り、祝福をもって応えて下さる方です。しかし、一方でその土地の人たちからは妬まれるという別の試練が待っていました。
創26:15〜17節 妬みにかられたペリシテ人たちはイサクの父、アブラハムの井戸に土を満たしてふさいでしまいます。そのような嫌がらせがありましたが、ペリシテ人たちの王アビメレクは、これが嫌がらせで済む内に出て行ってくれとイサクに頼みます。イサクは忍耐し、黙ってその要求を飲み、その地を去ります。
創26:18〜22節 それから、イサクは父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を探して、また掘り起こしました。これらはアブラハムの死後、ペリシテ人が、これは好機と埋めていたものです。それを掘り起こし、またその井戸に父がつけた名前を付けたというのは、イサクが正当な所有権を持つことを宣言することでもありました。しかし、そこでも、羊飼いたちが「この水はわれわれのものだ」と言って使用権を主張しました。イサクは今度も強く主張して争うことをせず、次の井戸を探しました。ところがその井戸においても同じような争いがあり、さらに探し当てたところでやっと争いなく得られる井戸を得ました。
23〜25節 イサクはそこから、ベエルシェバに上っていきました。そこは、父アブラハムも主の御名によって祈ったところでした(21:33 )。父の井戸を点々とし、かつて父が礼拝をささげた場所に行き、そして、そこで主はイサクに現れて、みことばを語って下さいました。それは、アブラハムへの祝福の約束は、イサクに確か に引き継がれることを確認させるものでした。イサクはまた父がそうしたようにこのところに祭壇を築いて礼拝をささげたのでした。
26〜31節 そのところへ、再度、アビメレクが友人のアフザテと将軍ピコルを伴ってやってきました。27節で初めてイサクは率直で強い口調で訴えます。アビメレクのこの度の申し出もずいぶんと図々しいものでした。ペリシテ人たちが散々イサクにちょっかいを出したことを黙認しておきながら、イサクを追い出したのに、今度はイサクが豊かになったので、互いに不可侵条約とでも言いましょうか、そのような契約をしようと言うのです。ここでもイサクは、忍耐して受け入れました。
32、33節 そのような条約が結ばれた後、イサクにとっては良いことに、さらに井戸が見つかったという報告がありました。そこで、イサクはシブアと名付けました。シブアは、七という意味です。ですから、ベエルシェバとは、七つの井戸、あるいは七は完全数で神聖な数字とされていましたので、聖なる井戸という意味です。どちらにしても、そこに神の御手のわざを見たということが表れているのでしょう。イサクはこのように、何度も何度も権利を侵され、その都度、その地を追われて各地を点々としました。約束の地を与えられるとのみことばを頂いていても、なお地上では寄留者であり巡礼の旅を続けなければならなかったのです。しかし、イサクは忍耐の人であり、柔和な人でありました。ここに、主イエスのひな形を見ることもできます。
ヤコブの手紙3:18と、一連の文脈を見てみましょう。 「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」私たちはこの世にあって、平和をつくる人であることが求められています。平和をつくることのできる人とはどういう人であるか。それは知恵ある人です。そして、それは肉の知恵ではなく、天上の知恵を頂く者でなければならないのです。生まれつきの私たちにはこのような知恵は備わっていません。天より頂かなければならない。つまり、祈って知恵を授けて頂くほかないのです。そうすれば、上からの知恵として、清い純真さが与えられます。また、平和で優しく協調性のある心が与えられます。しかもそれは見せかけだけのものではない本当の愛と言えるものです(17節)。しかし、私たちのうちに苦い妬みや敵対心があるならば、知恵を頂くことはできず、また平和をつくり出すこともできません。「あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」13節。それは十字架を背負われたイエス様の生き方そのものです。イエス様は平和の君です。力ある方でありながら、決してその力を行使しませんでした。当然の権利を一切主張されず、ののしられてもののしり返すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになりました。そのような平和の君としての歩みを通して、すべての人の模範となられたのです。
私たちは、当然の権利が侵されるときには怒り心頭、つい声を荒げて争ってしまうことがあります。この世の不条理に決して泣き寝入りしろということでもないのですが、そのような消極的な意味でなく、積極的に平和をつくるわざとして、あえて自分の訴えを神に委ねるということができるかどうか、そういうことがこのところから問われるのではないでしょうか。平和のうちに種を蒔くなら、必ずその刈り取りもすることになります。平和も、苦々しい思いも、小さな種のようなものですが、刈り取るものは大きく違ってきます。平和の種を蒔くならば、義の実を結ばせるのです。それはすなわち救われる魂が起こされるということではないでしょうか。もし、争いのあるところに遣わされることでもあるならば、あえて争うことを避けて柔和な生き方を示すことで、主にある者の平和を証しすることができるのです。
国同士の争いという大きなことを個人の力でどうこうできるものではありませんが、それでも始まりは小さな種です。「からだのなかの争う欲望」がふくれあがって戦争になるのです。親兄弟、友人、職場の同僚との関係などの身近なところでも、遣わされていくところどこにおいても、平和をつくる者として、小さな 種を蒔き続けるならば、収穫の主が必ず義の実、救いの実を実らせてくださいます。主の模範に従って歩んで参りたいと願います。 <みたまキリスト教会日曜主日礼拝・小林泰輔牧師>
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