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執筆者の写真みたまキリスト教会

死んでも生きるのです

2021.10.10



◎ヨハネの福音書11:1~11

“死”は、イヤなものです。唯一まことの神が、天地万物と私たち人間を創られ、全てがよかったそのとき、“死”は存在しませんでした。神が愛を分かち合うために、初めに創られた人間アダムとその妻エバが、神の愛を無視し信頼を裏切ったとき『…一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった…』(ロマ5:12)のです。いのちの源である神を否定したとき、本来味わわなくてもよい“死”を、人は自ら招いてしまったのです。 その“死”に敵対するイエスは、十字架を目前にして、最大の奇跡を行われます。イエスの愛する友、ラザロの復活です。それにしても死んで四日とは、誰もが死を認めるには十分すぎる長さです。私の父は、帰宅した母が見つけたときには死後3時間経っていましたが蘇生不可でした。終わりの日に栄光の身体で復活する希望を抱くマルタでさえ、『主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。』と諦めています。そんなマルタにイエスは、『「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』と十字架の死と復活の預言ばかりかラザロの復活を約束されていたのですが…。イエスが、ラザロの危篤を聞いても、なお彼が死ぬまで二日も待ち、焦り非難する人々をよそに、死後四日目に着くように進まれるのは、偉大な神の御力を全ての人が見るためです。とはいえ、イエスは“死”に対して、二度も霊に憤りを覚えられ、心を騒がせています。これは“死”への宣戦布告です。『「ラザロよ、出て来なさい。」』神のことばは生きていて力があるとは本当にこのことです。イエスは、誰一人復活どころか、復活のふの字すら思い描けなかったすべての人の想像を遥かに越えたところで、ラザロを復活させました。この後、イエスの十字架を通して『死は勝利に呑み込まれ』ます。死は敗北し死が人生の終わりではなくなったのです。罪を取り除きその結果の“死”そのものを打ち負かしたイエスを信じる者は、死んでも生きるのです。この世に生きながら、創造の初めの永遠のいのちへの回復を生きることは希望でなくてなんでしょうか。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>

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