神に叫び求める
2022.07.31
ルカの福音書18:1~8
この話は、イエスさまが私たちに祈ることを励ましてくださるお話です。祈りは神との対話であり、神さまはいつでも聞いてくださいます。ルカはこの話からのイエスさまの結論は「いつでも祈るべきで、失望してはならない」ということであるとしています。たとえ話自体はとても単純で、読んだままのことですが、登場人物はまたもや「不正な」裁判官です(前回は「不正な」管理人でしたね)。こういった悪しき人が出て来る場合は、「まして神は」という対比を際立たせるためです。不正な裁判官は自他共に認める悪代官でした。自分で「私は神をも恐れず、人を人とも思わない」と言ってしまうほどのろくでなしなのですが、よりによってそんな頼りにならない裁判官のところに、一人のやもめの女性が懇願に来るのです。生きていくだけで精一杯のこの人はさらに人間関係のトラブルまで抱えてしまって、それを裁いてくれるように頼みに来たのです。はじめは全く取り合おうとしない裁判官も、あまりにしつこいので面倒になって裁判を早く片付けようという気になります。不正な裁判官でさえ、こうなのだから、まして善良な裁き主である神さまは私たちの祈り叫ぶ声を夜昼問わず、聞いてくださるということです。エリシャの時代にシュネムという町に、子供のいない裕福な年寄り夫婦がいました。エリシャの活動を支援してくれていたのですが、そのお返しに何かしてほしいことはないかと聞きますが、特に何も求めません。子どもが与えられることを求めることはもう諦めたのでしょうか。期待することにも疲れたのでしょうか。静かな余生を望みますと言うかのようです。しかし、心の奥底にしまっていた思いに応えるかのように、神はエリシャを通して、子どもが与えられることを告げ、本当に男の子が生まれました。しかしある日、その子が突然死んでしまうのです。この母親はエリシャの足元にすがりつき、「子どもが欲しいなんて求めたでしょうか」と叫びます。こんな悲しい思いをするなら、子どもがいない方がよかったということでしょうか。でも死を受け入れられない、あるいは神の人エリシャなら奇跡もあるのではないか、そんな希望もあったのでしょうか。その信仰に応えるように神はこの子を生き返らせてくださいました。私たちも期待し諦めず祈りましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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