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執筆者の写真みたまキリスト教会

神の恵みの賢い管理者

2022.06.19



◎ルカの福音書16:1~18

不正な管理人の譬え話です。譬え話とは言え、神さまが不正をほめるとはどういうことか、理解が難しいこともあるかもしれません。とんちが利く一休さんの物語のように、小賢しさを誉めたものなのでしょうか。ずる賢さの「ずるさ」の部分は置いておいても、賢さは見習いなさいということなのでしょうか。あるいは、新興宗教の教理の不真実は差し引いても勧誘のしつこさだけは見習え、みたいなことなのでしょうか。この譬え話においても、不在主人の話という背景があるように思います。主人は財産を管理人に一任して旅に出かけていたのでしょうか。その男の普段の仕事ぶりを知らなかったかのようです。誰かの告げ口によって初めてそれを知ったのです。タラントの譬えにしても、油を絶やさず待つ乙女の譬えにしても、主人不在のときの振る舞いが、主人の帰宅時に問われるというものです。私たちの地上の生涯は、目に見えない神さまから預けられた恵みや賜物をどのように用いるかであり、再臨のときに問われるものです。こずるい管理人は一貫してこずるく、主人に債務のある人たちの、その額を勝手に減免し、恩を売ることで、おそらく解雇になるだろうその後を生き抜こうとします。こんな道徳的にもあまり好ましくない物語をひっくり返す言葉があります。それは「光の子」です。サウロ(のちのパウロ)は非常に賢い人でしたが主イエスに対しては反逆者でありました。その彼が、闇から光へと変えられたのです(使徒 26:17,18)。光の子バージョンで先の譬えの後半を見るとどうでしょう。管理人は主人の財産を大胆に浪費します。そして債務を返すことのできない困窮している人たちを助けます。主人には損失ですが、債務者にとっては大きな喜びです。不正な管理人と光の子の決定的な違いは、主人との信頼関係にあります。神は喜んで浪費し、放蕩する神です。この世の子らが抜け目なく賢くやるなら、光の子はそれ以上に賢く神の財産を使いまくるのです。ですから、私たちも預けられた賜物を神のみわざとして用います。私たちにできないことをしてくれた方がいます。その方は債務の全額免除ということをしてくださいました。十字架にかかられた主イエス・キリストです。私たちが到底払いきれない罪の代価をご自身のいのちで支払ってくださったのです。主の大いなる恵みに感謝しましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>

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