見よ、光は来た
2021.12.19
◎ルカの福音書11:29~36
ヨハネ1:9 に「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」とありますが、「来ようとしていた」その光(イエス)が「来た」のがクリスマスの出来事です。本日の箇所の後半には、光は燭台の上に置かれ、家に入って来た人たちに光が見えるように されたと書いてあります。主イエスの生涯が聖書に記され、十字架の死によって私たちの罪が贖われたこと、三日目に死人からよみがえられたことによって私たちの罪が赦され、栄光のからだにつくり変えられ、神の国に入れられることが明らかになりました。これがイエスの福音の光であり、私たちの希望です。これをしっかりと見つめて目を離さないようにしたいです。「からだの明かりは目です」とあります。カメラの眼はレンズですが、レンズには「絞り値」というものがあって絞りを開放すると明るい写真になります。しかしまた、レンズが曇っていると良い写真はとれません。「あなたの目が健やかなら全身も明るくなります」(34節)とは、目が澄みきっているとも訳せます。曇りのない目でイエスさまを見つめるなら、私たちも明るく快活でいられるでしょう。私たちは目に見えない方を見ています。肉眼ではなく、霊の目、信仰というレンズを通してイエスさまを見ています。しかし、悪い時代はしるしを求めるのです。神のおられるしるし(証拠)はどこにあるのか!と求めるのは裁判官が証拠を求めるように、自分を裁き主とすることであり、神に対する不遜で高慢な態度です。かつてしるしとしての証人は与えられました。ヨナと南の女王(シバの女王)です。ニネベの人たちはヨナの語る説教によって悔い改め ましたが、ヨナの説教に勝るしるしは、「神のことば」そのものであるイエスさまご自身です。そのイエスさまのことばを聞いて信じない人なら、どんな証拠をあげても信じることはないでしょう。南の女王はソロモンの知恵を聞くため、はるばるやって来て、その神の知恵に感嘆しひれ伏しました。しかし、ソロモンに勝る知恵があります。それが御子による救いのご計画です。神の御子が十字架にかかって死ぬことで私たちの罪が赦されるとは、なんという知恵、なんという愛でしょう。また、多くの信徒方が証人としておられます。私たちもイエスさまから目を離さずについて行きましょう。(ヘブル12:1-2)<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・小林泰輔牧師>
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