誰のために生きる
2021.11.14
◎ヨハネの福音書12:20~33
ユダヤ人が千年以上も待ち望んでいた救い主イエス・キリストが、ついにエルサエルに入城します。(15節)王といっても地上の王としてではなく、神と人との平和の王として。そして今、イエスに直接会うことを妨げられている名も無きギリシア人(20節)とユダヤ人との間にある壁を壊す、平和の王としても来られたことを明かされます。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』(24節)一粒の麦であるイエスの十字架の死は、ユダヤ人のみならずギリシア人にも及ぶ豊かな救いの力なのです。神の民と、未だそうではない民を区別して、自分たちよりも劣った存在として見なす、人と人との間にある壁が打ち壊される必要があったのです。(エペ ソ2:14)イエスは十字架によって、ユダヤ人と異邦人との間にある、敵対心、嫉妬、争いという、すべての隔たりを打ち砕いてくださいました。同じ唯一の神によって一つとされ、一つのキリストのからだになるためです。出身地、育ち、立場の違い、私たちは簡単に壁を作る世界に生きています。偏見や、嫉妬、敵対が至る所で生まれています。近所でも、学校でも、会社でも。しかし、私たちは、既にイエス・キリストによって、それらの壁を取り除かれ生きる者とされました。私たちが出会う人々の中に、どこかでイエスを求めている人々が、イエスを知らなかったとしても、真理を求めて生きている人々がおられます。(31,32節)私たちは、そういう人々がイエスと出会う助けとなるために、今それぞれ生きる使命を与えられている。そう言えます。世と調子を合わせることは出来ません、しかし救われているから優れている、などと自分自信を誇ることがありませんように。私たちが誇れるものは、ただイエスの十字架のみです。イエスの十字架によって、自分を誇る愚かさを打ち砕いていただき、隣人の祝福を祈り、とりなす楽しさと、喜びが私たちの生活に溢れますように。聖霊の導きを求めましょう。<清和キリスト教会YOUTUBEオンライン礼拝・森田学師>
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